守るべきは鮮度と品質。お客様へ旨さと安心を届ける信念を頑なに貫き、柔軟な行動力で顧客や社員に寄り添う総合食肉卸【立川臓器株式会社】

多摩地域で飲食店や精肉店へ内臓やお肉を提供する「立川臓器株式会社」。1947年の創業以来「鮮度と品質」を守り続け、食肉の総合卸へと成長しました。二代目として会社を継いだ鈴木康弘さんは、知り合いゼロからスタート。お客様の話をしっかり聞き真摯に取り組むことで信頼を寄せられ、飲食店のほか学校給食や南極観察隊にもお肉を提供することに。一方社内では、新旧社員の課題を解消しモチベーションアップ、社内の雰囲気が明るく変化してきました。

この会社の特徴

企業情報:立川臓器株式会社
事業概要:総合食肉卸
住  所:国分寺市
代  表:鈴木 康弘


東京から14,000キロ! 南極地域観測隊へ肉を届ける立川臓器の心意気

※『南極調理隊タテヤの越冬日記』より引用

https://www.gentosha.jp/series/nankyoku-tateya

 

 立川臓器株式会社は、多摩地区を中心に、居酒屋や焼き鳥・焼き肉店、小学校給食や社員食堂へ新鮮で良質な肉を提供する、食肉総合卸です。1974年、初代社長の鈴木章弘さんが創業し、2012年に鈴木康弘さんが二代目として社長に就任しました。

 近年の事業で特筆すべきは、2012年から始まった「南極地域観測隊へ肉を届けるプロジェクト」。冬は気温マイナス30度という過酷な環境で活動する昭和基地の観測隊へ、一年分の肉を毎年届けています。協力のきっかけは、取引先の居酒屋で料理長をしていた堅谷 博(たてや ひろし※以下タテヤさん)さんが、国立極地研究所の「第55次南極地域観測隊」のメンバーに選ばれたこと。のちに漫画「俺、南極で料理してます」(幻冬舎、著者:土山しげる、原案:竪谷博)のモデルとなった料理人です。

 もともとは取引先の飲食店の一つという関係でしたが、ある日、タテヤさんから南極に行く準備として相談を受けます。南極に向かう覚悟、隊員の命を預かる調理への情熱を聞き、「自分の会社でできることがあればお役に立ちたい」と協力を即決断。準備を進めるなかで、情熱にあふれ真面目なタテヤさんの人柄と思いに触れて、一層力が入りました。

 「1年分の肉って、ものすごい量なんです。毎年、冷凍庫の中はカオス(混沌)になるそうです」と康弘さん。注文リストは何ページもあり、ベーコン、ハム・ソーセージ関連、豚肉、内臓類、牛肉など、様々な種類の肉を大量に輸送することになります。それを立川臓器で見積もると、適正価格でも過去業者の3分の2ほどにおさえられました。さらに「少しでもその大変さを軽減し、使いやすくできたら」と解決策を提案します。膨大な量の肉を冷凍庫の中で管理しやすくするため、牛肉には青色、豚肉には黄色などのシールを貼り一目で肉の種類が分かるようにしました。また、ごみの量を減らせるよう梱包する肉の形やパック素材も工夫しました。

 昭和基地で活動する隊員24人の一年分の食事をまかなう食材の量は、約24トンあり冷蔵庫200台分に相当します。その総量を把握すること自体が大変ですが、管理・整理方法まで提案し実行してくれたのは心強いはずです。「過酷な環境で活動する隊員の皆さんにとって、食事は最大の楽しみ。その料理のお手伝いができることを嬉しく思います。私たちが肉を届けている間は、隊員の皆さんに喜んでもらえるよう、できる形でプラスアルファの価値を提供したいと思っています」と、目を輝かせながら話してくれました。

業績好調な60年間。時代の変化とともに見えた課題とは

 立川臓器の創業は、1974年。康弘さんの父・章弘さんが創業しました。宮城県から東京・新宿に出てきた章弘さんは、居酒屋の手伝いを経て、福生市にあった市場(食肉解体場)から仕入れた牛や豚の内臓を飲食店に売る卸業を始めました。社名に立川の地名を入れたのは当時「立川方面から質の良い肉が入る」という評判にあやかり、またその名に相応しい卸でいようと思いを込めたため。創業し2~3年経った頃、現在の国分寺市に工場を構えると、取り扱う肉の量や種類が増え配送体制も整い、業績は右肩上がりでした。

 一方、「いずれ自分が会社を継ぐ」と思っていた康弘さんは、私立の中学・高校を卒業し、実家を離れて静岡県の大学に進学しました。そのまま現地の合板会社に就職し、社会人としての基礎をしっかり叩き込まれたそうです。その4年後、母のすすめがあり、立川臓器を継ぐ準備のために東京に戻ってきました。立川臓器に入社し、最初の10年間は配送を中心に肉を捌くなど、他の社員と一緒に働き、現場のことは何でも答えられると自負できるほどに成長。2012年、康弘さんが36歳の時に社長に就任しました。

 立川臓器は、バブル期の好景気を追い風に成長し、平成の大不況も乗り越えてきました。しかしここで康弘さんは気づきます。「それまでの取引先は父と同年代で、取引が先細りしていくのは明らか。新たに取引先をつくらないと、10年後は会社が潰れるかもしれない」新社長は、率先して新規取引先を作りに動きます。

  ところが、康弘さんは、飲食業界も地域の知り合いも、ほぼゼロ。そのため「とにかく誰かに聞いてみよう、頼ってみよう」と、多摩地区で活躍する事業主が集まる団体に参加。各業界の大先輩や若手経営者たちと出会い、相談に乗ってもらいました。「自分ひとりでどうしようもないことは、誰かに頼るしかない」と話す康弘さん。気負いなく、自分をさらけ出せる素直な人柄のおかげで、人のつながりが広がりました。やがて学校給食や社員食堂などの取引が始まり、さらに20代30代の若い経営者に出会えたことで、取引先リストの若返りにも成功。「これで、ようやく会社の少し先の将来が大丈夫」と安堵したのは、数年経った頃でした。「以前は自分が相談することが多かったけど、最近は相談を受けることも多くなりました」と話します。

 社内では、また別の問題が現れます。社長交代後、先代社長も社内にいた時期に、誰かが「社長!」と呼ぶと、新旧の社長二人とも振り返る……そんなことが何度かありました。社内の意識が切り替わらない、士気に関わるため二人で話し合い、先代は顧問として見守ることとしました。

 旧態の意識を変えるのは簡単なことではありません。創業以来50年間、先代は「俺について来い」というリーダーシップで会社を引っ張ってきたので、言われるままに仕事をすることが当たり前でした。その意識で意見する人もいて、新旧・世代の考えの違いが露わになりました。康弘さんは、「言われたからやる、言われたことしかやらない、という受け身な考え方では難しい。今は時代も文化も違うので、それでは仕事として成り立たなくなる」と言い切ります。しかし、「社長や同じ世代の社員の皆さんは、ここまで会社を支えてきてくれた先輩。敬意をもって意見を聞いています」と感謝の気持ちは忘れません。世代に関係なく、話を聞いて会話をして、相手のことを理解する。「一人ひとりを尊重し、お互いに居心地が悪くならないようにしたい」。社内の風通しをよくするためにも、コミュニケーションを大切にしています。

主体性と協調性で、誰もが成長し合える強い組織づくり

 相手の話を聞きコミュニケーションをとり、社内をまとめていく康弘さん。会社を継いでから社員に伝えていることがあります。「主体性を持つこと。言われたことだけをやるのは単なる作業、自分で考えて行動するのが仕事」だと言い切ります。

 「困ったことに直面しても主体的に考える人になってほしい。成長のきっかけになり、周りにも良い影響がある。他の人を悪く言ったり、妬んでも自分の成長にはつながらない。『他人のことを下げるより、自分を上げる努力をしてみませんか』と伝えています」と熱を込めます。もっと良くしよう、チャレンジしてみようという姿勢を評価したいとも話します。

 また、じっくりと社員を育てる取組みも行っています。例えば、通常一人で行う配送業務ですが、入社直後は新人とベテランの二人一組で行っています。効率的に早く回ることも必要ですが、効率ばかりに目が向き、ちょっとした疑問を聞く機会や、不安や不満を解消せずに働くのは避けたいところ。そのために二人体制での配送を始め、「会話」が生まれるようにしました。お互いの仕事を知ることができ、先輩にも学びがある。何気ない会話から、相手の人間性を知ることもできます。この取り組みを始めて「社内の雰囲気も良くなり、離職する人もほとんどなくなりました。ベテランの域に達する10年選手も増えてきたんですよ」と嬉しい変化が。社員の皆さんが充実している様子が伝わってきます。

出荷量7割減のコロナ禍に、自ら仕事を生み出し乗り越えた“仲間”

 二代目社長に代わり、業績も社内の雰囲気も好転し安定してきた矢先、2019年・コロナ禍の緊急事態宣言が発出されました。会食や外食が制限され、飲食店は軒並み営業自粛、休業・閉業する店もあり、立川臓器も大きな痛手を受けました。

 「売上は通常の三分の一、社員の稼働は半分までに減りました。みんな不安だったと思います」と当時を振り返ります。実は、内臓卸というのは、発注して納品されるのではなく、ほぼ自動的に入荷するというシステム。つまり、精肉が出れば内臓も出る、一連の流れの中にありますが、精肉のように消費量が多いわけではありません。出荷が少ないので冷蔵庫に内臓の貯蔵が増える一方で、泣く泣く廃棄したこともありました。

 「この状況を何とかしなければ」その一心で、康弘さんが付き合いのある事業者に話してみたら、食肉加工業者など三者が集まり奮起。「自分たちで仕事を作ろう」と作戦会議になりました。「モツ煮を作って売ろう」「小売りに挑戦!」「ネットでも売ろう」と即行動に移します。卸のみの立川臓器が小売りに初挑戦し、工場の駐車場に旗をたて、チラシを配り、近隣の家に直接訪問・挨拶し店頭販売をしました。仲間の協力でホームページを作り、SNSで呼びかけると、各方面の仲間や知り合いが多方面で力を貸してくれました。そのおかげもあり、モツ煮のネット販売は評判を呼び予想以上に好調に。コロナ収束後も販売を続けていましたが、本業に注力するため一区切りし、2024年3月にサイトを閉じました。

 誰もが苦しい思いをしたコロナ禍を振り返ると、「できないことが多い状況で、一人で考えてもどうしようもなかった。誰かに相談すると、助けてくれる仲間がいて、自分も相手もプラスになる。仲間がいたことは本当にありがたかった」と心からの感謝を口にしました。

 康弘さんが言う“仲間”とは、自ら飛び込んだ経営者の会で出会った人たち、取引先の事業者、勤務日が減っても待ってくれていた社員たち。共に乗り越えた、すべての人が立川臓器や康弘さんの“仲間”になっていました。

 まずは誠実に向き合う、素直に助けを求められる。相手の話を聞き、その人のことを考え行動する。だからこそ信頼され、いざというときに助けあえる関係になっていたのでしょう。康弘さんは「この先も、独りではつくれない【鮮度と品質】を守りつづけ、食卓に安心を届ける、信頼される企業であり続けたい」と結びました。

募集要項